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2008/08/22

電気自動車「スバルR1e」[前編]2009年に販売開始へ・2度の挫折経てEVの花開く・富士重工業・鈴木隆史商品企画部主査


http://premium.nikkeibp.co.jp/em/ecolabo/05/
写真・文/永井隆
2008年8月21日(木)公開「さらに新しいもの」を求める遺伝子 「これじゃ、今週も酸欠だな。来週は、もっと大きな会議室を取ろう。それにしても、これほどたくさんの技術者が、電気自動車を成功させたいと願っているのか」 富士重工業・スバル商品企画本部商品企画部主査の鈴木隆史は、今までに経験したことのない熱気を感じていた。2008年5月某日、群馬県太田市にあるR&D(研究開発)施設内のミーティングルーム。開発中の新商品について、週に1回開かれるプロジェクトチームミーティング(通称・PTミーティング)が始まろうとしていた。開発、そして商品化に向けて、現在直面している問題を解決するため、担当メンバーだけでなく新商品に関心を持つ技術者が集まり、議論しながら知恵を出し合う場である。富士重工の主力車種である「レガシィ」や「インプレッサ」などでも、同様のPTミーティングは開かれる。だが、10人から、集まっても15人がせいぜい。ところが、電気自動車(EV)のPTミーティングには毎回40人もが集まり、すし詰めの酸欠状態になってしまう。「富士重工は開発型の会社です。新しい技術や商品を他社に先行して世に出していく。やがて、ライバルは後追いしてくるが、その時には、さらに新しいものを富士重工は出している。他社と同じことをやっていたら、生産規模で勝つことはできないから」EVとは、富士重工にとっても自動車メーカーにとっても、まったくの新機軸である。このためか、参加者の技術者魂に火がついていたのだ。EV「R1e」の商品企画担当、鈴木隆史・スバル商品企画本部商品企画部主査。東京都出身。東京理科大学で物理を専攻して1985年に入社。ドイツ駐在などを経て、2000年に商品企画部へ。「R1e」の担当になったのは2005年から。「EVにかける技術者みんなの思いは熱いんです」 もっとも、「ガソリンエンジンの車作りには50年の歴史があるものの、EVは前例がない。このため、大変な試行錯誤の繰り返しであり、ブレークスルーをめざす壁は高い」と鈴木は話す。鈴木は商品企画の担当者である。商品企画とは、サッカーに例えるなら、中村俊輔のような司令塔の役割を担う。販売スケジュールに応じながら、開発や技術、営業や宣伝などの部署に適切な指示を出して新商品開発を管理し、一つの方向へと統括していくのだ。東京都足立区出身の鈴木は、東京理科大学で物理を専攻して1985年に富士重工に入社した。物理学科の同級生たちは、核物理や量子力学を専門として、主に電機や電力関係の会社に就職したそうだ。ドライブ好きだった鈴木は、学生時代、自宅に“ポンコツ”のマイカーを所有していたが、自分で修理を行っていた。専門書を読み漁り、車をいじるうちに、自動車そのものを好きになっていく。「自動車は総合技術だ。物理学科の自分でも、きっと何かの役に立つ。俺は自動車会社に就職しよう」と決意した。東京電力との出会いが新しい道を切り開かせた 鈴木が富士重工を選んだのは、「物理学科に求人があったのは富士重工ぐらい。しかし、航空関連をやっているなど、新しい技術をいつも追い求めていて、おもしろそうだと思った」と振り返る。入社後、メーターなどの見やすさなどを実験・研究する人間工学部門に配属される。その後、安全性に関する研究部門、さらに1990年から5年間はドイツに駐在し、欧州の交通事情を調査する。ドイツ時代は新婚の夫人を乗せ、スバル車を駆って欧州全土、さらにはモロッコやトルコを走破したそうだ。海外商品部門を経て商品企画部門に配属されたのは2000年。以来、軽自動車の商品企画を担当した。EVを正式に担当したのは2005年からだ。富士重工の電気自動車「スバルR1e」。ベース車は2005年1月に発売された「スバルR1」。てんとう虫の愛称で親しまれた「スバル360」を彷彿とさせる丸みを帯びたデザインが特徴。現在は東京電力の営業車両として使われ、実証実験が重ねられている。二人乗りで、1回の充電で80kmを走行できる。最高速度は100km/時 富士重工は、当初の計画を1年前倒しして、2009年にEV(軽自動車ベース)の国内販売を始める計画を打ち出している。最初は、主に法人向けに年間100台を販売。2012年~2013年には、車両価格を200万円程度に引き下げて個人客にも売り込んでいく。年間で数万台を超える販売量を確保できるようになれば、二次電池の価格が量産効果で引き下げられ、早ければ2015年前後には150万円を切る車両販売価格を実現させる。これが、現在描いているシナリオだ。すでに、富士重工はEVを一部で走らせている。正確に表現するなら、主に東京電力の営業車両として使われていて、使い勝手や経済性を検証しているのだ。2005年秋、富士重工と東電はEVの共同開発に着手。2006年には、軽自動車「R1」をベースにしたEV「R1e」を10台、東電に納車して営業車として走り始める。翌2007年には、充電時間を短縮させた30台を納めた。合計40台のうち2台は、2007年9月から神奈川県に貸し出している。さらに2台のうち1台は、藤沢市や綾瀬市など県内の自治体にほぼ3カ月ごとに回されていて、県および市町村の業務車両としての検証も進められている。検証データやユーザーの生の声は、鈴木のもとに送られる。2009年の販売開始に向けて、2008年は追い込み段階である。エクステリア同様にインテリアも一般の軽自動車と変わらない 2008年6月、筆者は「R1e」を東京・西新宿で運転した。操作はガソリン車と同じで、キーを回して起動する。ただし、エンジン音は響かない。アクセルを踏むと、スムーズに発進する。低回転域なのに、いわゆるトルク(この場合はモーターの回転力)は高い。何より、音は限りなく静かだ(というより、タイヤ音ぐらいしかしない)。ガソリンの軽自動車が、エンジンが冷えた状態で、いきなり走り出したときのような“重さ”やうるささは、R1eにはない。新宿駅方面から新宿中央公園に向かう三車線道路を、都庁の前で一番右の追い越し車線に車線変更するが、制御も加速も自在だった。そして、中央公園前のT字路を右折。バスなどの大型車両の間を縫うように、キビキビと走行する。ブレーキを踏むと、スピードメーター右側の蓄電ゲージが動く。減速時には回生ブレーキの働きにより、運動エネルギーを電気エネルギーに変換し、バッテリーに回収するのだ。このあたりの仕組みは、ハイブリッド車と同じである。鈴木は「商品企画の担当という立場はともかく、EVをここまで完成させたのは私ではない。現場の技術者たちだ」と話す。富士重工を支える「小さい車」へのこだわり 「環境にやさしい車をつくろう」と、富士重工がエコカー開発を始めたのは1995年から。最初に手掛けたのは、軽のハイブリッド車だった。「少ない資源で生産できて、もともと環境面で優位な軽自動車をハイブリッド化すれば、世界で一番環境にやさしい車になると考えた」と、鈴木は狙いを説明する。ハイブリッド車は、ガソリンエンジンと二次電池で動くモーターを組み合わせている。二つの異なる駆動源を最適な効率で使い分けられるのが、最大のメリットだ。トヨタ自動車の「プリウス」やホンダの「シビックハイブリッド」が代表的な車種である。富士重工は、これを軽自動車でやろうとした。1997年の東京モーターショーには、リチウムイオン電池を使ったハイブリッド車「L10」を出品。2年後の1999年モーターショーではリチウムイオンよりもコストが安いニッケル水素電池を使った「L10カスタム」を、さらに2001年モーターショーでは、エンジンのアイドリングストップ機能をもつ改良型を出品する。すでに1997年には、トヨタが初のハイブリッド車「プリウス」を商品化して発売。富士重工はトヨタの後塵を拝していたが、「当社には小さい車へのこだわりがあった。こだわりが技術陣の心を支えていた」と、鈴木は言う。軽自動車の先発メーカーは、ダイハツでもスズキでもなく実は富士重工である。1955年当時、通商産業省(現在の経済産業省)が自動車の普及をめざして検討していた「国民車構想」を受けて、富士重工が「スバル360」を商品化したのは1958年。「てんとう虫」の愛称で親しまれ、大ヒット商品となっていく。ボンネットをあけると、エンジンではなくモーターが現れる。エンジンが冷えた状態でガソリンの軽自動車をいきなり発進させると、エンジン音や振動が気になり、加速には難がある。EVは違う次元だ 戦闘機「隼」などをつくっていた旧中島飛行機を前身とする富士重工は、軽自動車に始まり、航空機技術をベースとした水平対向エンジン、乗用4WD(四輪駆動)車、無段階変速機(CVT)と、新機軸の商品や技術を世に送り出してきた。鈴木が指摘する通り「開発型の会社」であり、技術開発を好む技術者が多いことは富士重工の遺伝子とも言える。しかし、軽のハイブリッド車は商品化できなかった。理由は長さ3.40m、幅1.48mと規格が決められている軽自動車の小さなボディーに、複雑な機構であるハイブリッドシステムを搭載するのが難しかったためだ。完成できれば環境面では群を抜くものの、コストが大幅にアップしてしまう。そこで2003年、富士重工はそれまでの方針を転換する。ハイブリッドシステムは中・大型の登録車に搭載し(内燃機は水平対向エンジンとする)、軽はEVにするという2軸路線に切り替えたのだ。この決定には、軽自動車の商品企画担当の鈴木も居合わせた(なお、1995年の段階で富士重工は「サンバーEV」というEVを発売した経緯はある。しかし、実験的な域を出ず、2003年には発売を終了させた)。夢をあきらめなかったから、今がある 「軽はEV」と方針を決めたものの、実はここからが“茨の道”だった。このときの決定は、具体的な発売時期を盛り込んだ商品化の決定ではない。あくまで、EVの将来性を見込んでのものだった。2002年9月にはNECと合弁会社を設立していた。技術者を派遣してリチウムイオン電池の開発に取り組んでいたものの、「この時点ではEVは、まだずっと先という認識だった」。自動車業界では、これまでに2度、EVについての大きな波が来た。最初は1970年代のオイルショック後。価格が高騰した石油への依存体質を転換するのと大気汚染への対応から、官民が一体となり開発に取り組んだ。2度目の波は、1990年代半ば以降。米カリフォルニア州が独自の自動車排ガス規制制定に動き出したのがきっかけだった。しかし、開発はまたも頓挫する。ネックになったのはバッテリーの価格。商品化するには価格が高すぎた。結局、燃料電池車開発を進めていたトヨタとホンダが、2002年にともに完成させ、経産省や環境省に納車する。“究極のエコカー”として燃料電池車が脚光を浴び、EVの波はまたも引いてしまう。ガソリン軽自動車の場合、1999年の規格改定でボディーが一回り大きくなったもののエンジンは以前の660ccのまま据え置かれた。ボディーとエンジンのバランスから、軽自動車は1000ccクラスの登録車よりも全般に燃費性能で劣るとも言われる 2003年に方針決定したものの、富士重工のEVプロジェクトは一向に盛り上がらず、やがて実質的な休眠状態に陥る。こうしたなか、太田の研究所の片隅で、数人の技術者たちは黙々とEV開発に取り組んでいた。なかには、1995年から従事している人もいた。自動車に限らず、技術者にとっての最大の喜びとは、取り組んでいる研究や開発が具体的な商品として世に出ることだろう。新しい技術や商品は人々のライフスタイルさえ変えていく。EVならば地球環境そのものを好転させるのも可能だ。しかし、巡り合わせなどから、自分の研究や開発が世に出ないまま、定年を迎えてしまう技術者はどこの分野でも多いのが現実である。富士重工の技術者たちは、いつ商品化されるのか見当もつかないEV開発を決して止めなかった。これはNECとの合弁企業に派遣された技術者も同様だった。風が吹いたのは2005年。社内で使用するEVの共同開発先を探していた東電が、富士重工に白羽の矢を立てたのである。プロジェクトは一気に目覚め、商品企画担当として鈴木が正式に起用される。2005年9月、まず1年後に10台を納車することが発表された。「動き出せたのは、東電のおかげ。そして東電が当社の技術を高く買ってくれたのは、休眠の状態でも開発をやり続けた技術者たちがいたから。夢を諦めなかった彼らの努力なくして、いまはない」と鈴木は話す。

永井 隆 氏 (ながい たかし)ジャーナリスト
1958年生まれ。群馬県桐生市出身。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ社経済部で記者をしていた。1992年8月、販売不振から同紙が突如休刊し、失業を経験。その後はフリージャーナリストとして活躍。著書は最新刊の『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)をはじめ、『技術屋たちの熱き闘い』(日本経済新聞社)、『技術屋たちのブレークスルー』(プレジデント社)、『「軽」ウォーズ戦陣訓』(同)、『現場力』(PHP研究所)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『ビール最終戦争』(日本経済新聞社)、『ビール15年戦争』(同)、『リストラに克った』(同)、『一身上の都合』(ソフトバンク クリエイティブ)、『「人事破壊」後』(徳間書店)、『得な資格 損な資格』(廣済堂出版)など多数。1998年2月から日刊現代にて酒のコラム『グラスの中の経済学』を連載中。2005年から明治大学が発行する雑誌『明治』編集委員。


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